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神のなされることは皆その時にかなって美しい


セピア色 バイブル キラキラ

何十年も昔になりますが、とある福音派系統の団体の宣教師から渡された50ページほどの一冊の小冊子。そこには新約聖書の要約が載せられていて、それをふと読んでみて心惹かれ、いろいろと調べたりしたり、また偶然から、いろいろな聖書の学びの場や福音のメッセージに出会うことができました。

 キリスト教の布教活動は普通の教会や宣教団体であれば、それは種まきと言えるでしょう。新約聖書の中にイエスさまが弟子たちにたとえ話をされ、そしてそれを解き明かされている場面があります。それをマルコの福音書の中から読んでみましょう。

❝イエスは譬で多くの事を教えられたが、その教の中で彼らにこう言われた、「聞きなさい、種まきが種をまきに出て行った。まいているうちに、道ばたに落ちた種があった。すると、鳥がきて食べてしまった。ほかの種は土の薄い石地に落ちた。そこは土が深くないので、すぐ芽を出したが、日が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種はいばらの中に落ちた。すると、いばらが伸びて、ふさいでしまったので、実を結ばなかった。ほかの種は良い地に落ちた。そしてはえて、育って、ますます実を結び、三十倍、六十倍、百倍にもなった」。❞

❝また彼らに言われた、「あなたがたはこの譬がわからないのか。それでは、どうしてすべての譬がわかるだろうか。種まきは御言をまくのである。道ばたに御言がまかれたとは、こういう人たちのことである。すなわち、御言を聞くと、すぐにサタンがきて、彼らの中にまかれた御言を、奪って行くのである。同じように、石地にまかれたものとは、こういう人たちのことである。御言を聞くと、すぐに喜んで受けるが、自分の中に根がないので、しばらく続くだけである。そののち、御言のために困難や迫害が起ってくると、すぐつまずいてしまう。また、いばらの中にまかれたものとは、こういう人たちのことである。御言を聞くが、世の心づかいと、富の惑わしと、その他いろいろな欲とがはいってきて、御言をふさぐので、実を結ばなくなる。また、良い地にまかれたものとは、こういう人たちのことである。御言を聞いて受けいれ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶのである」。 ❞

❝また言われた、「神の国は、ある人が地に種をまくようなものである。夜昼、寝起きしている間に、種は芽を出して育って行くが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。地はおのずから実を結ばせるもので、初めに芽、つぎに穂、つぎに穂の中に豊かな実ができる。実がいると、すぐにかまを入れる。刈入れ時がきたからである」。
 また言われた、「神の国を何に比べようか。また、どんな譬で言いあらわそうか。それは一粒のからし種のようなものである。地にまかれる時には、地上のどんな種よりも小さいが、まかれると、成長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が宿るほどになる」。 ❞

『種まく人』1850年

 教会やキリスト者(クリスチャン)の行う伝道や布教というものは、御言葉という種をまく行為にほかならず、相手を言い負かしたり、理論を振りかざしたり、科学などの学問的な挑戦をするようなものではなく、相手の土壌に合った仕方で種をまく、実を結ぶかは神秘と言えるでしょう。これは蒔きっぱなし、植えっぱなしということではなく、あくまでも相手の心の中でどう芽を出し根を張るかということです。

 私たちの人生において、順風満帆な社会生活や信仰生活を送れるとは限りません。ある時にはとても不信仰になったりもします。人によってはまったく眠ってしまったり、棄教したり、また別なものに改宗したり、無宗教になってしまったりする人もあります。これはまた仕方のないことと言えます。石地に水をまき続けても水は根に吸収する前にはけてしまいますし、茨に覆われた場合も、茨を何とかしなければ意味がありません。人の心の中の石地や茨は本人にしか土壌改良や草刈りはできないのですから。

ふとであいやがて

 しかし、不思議なもので御言葉という種はとても強力で、いつの間にか石地のような心でも、根がしっかりと石地をからめ捕って抱え込んでしまっていたり、その生命力で茎をのばし、茨を跳びぬけ葉を茂らすこともあったりします。何度もアニメ化されたり、ドラマ化されたりして有名な「エースをねらえ!」という少女漫画がありますが、その中で❝ふとであい あい魅かれ やがてわかれ なお魅かれるこの運命!❞というモノローグがありますが、聖書というか神の御言葉とはそのようなことを地で行くような不思議な魅力があったりします。これも神秘と言えます。

 私が捉えたのではなく、私が捉えられた。私が求めたのではなく、神が招かれた。私が意味も解らず苦しんでいたのを、神がそれを知らせて、解決策をすでに用意されていた。これは神秘です。

 キリスト教は御利益なき宗教。だからありがたいということについて、「隠されたる神 苦難の意味」(山形謙二 著 キリスト新聞社)という本の中でこう語られていました。

❝神学者大木英夫氏は、「キリスト教にはご利益が無い。だからありがたい」との千葉儀一牧師の言葉を引用して次のように言っている。「この言葉は、ものすごいパラドクスであるが、しかもかぎりなく、真理である。この言葉が分からない人間は、決して教会にこないだろうし、来てもながくとどまることはないかも知れない。この言葉がさし示す真理に耐えられなかった人々が去ってゆくのを、わたしは見た。しかしこの言葉によってかえって福音の深い認識に至らしめられる人々もいた。キリスト者とは『ご利益なきありがたさ』が分かった人々である」。
 苦難の中にあってこそ、私たちの宗教、そして信仰が本物であるかが明らかになる。逆境の中においてこそ、私たちの宗教を求める動機の純粋性が問われる。私たちは何を求めてキリスト教を信じているのか。
 クリスチャンの間でもしばしば「今はこういう病気があるが、天国に行ったら…」「今はこういう不幸があるが、天国に行ったら…」などという言葉をよく耳にする。
 確かにそれは真実である。天国に行ったら、すべての悩みや問題は解決されることを知っている。それらはキリスト教に入るきっかけにもなりうるし、私たちがこの地上生活において苦難を耐えぬく力と希望にもなりうる。
 しかし、それらがキリスト教を信じている根本的かつ究極的理由であるとするなら、キリスト教の本質を履き違えてしまっている。それは本質的には、御利益宗教となんら変わるところがない。世間一般が求めているこの世的幸福を、単に「時」と「場所」を天国に移して求めているにすぎないからである。(p.64-65)❞

 またこれは以前にも引用しましたが、作者不詳の「病者の祈り」とか「応えられた祈り」と呼ばれる詩はそれをよく表していると言えます。

❝功績を立てようと、神に力を祈り求めたのに、謙遜に服従するようにと、弱さを与えられた。

 より大きなことをしようと、健康を祈り求めたのに、より良いことをするようにと、病気を与えられた。

 幸福になるようにと、富を祈り求めたのに、賢くなるようにと、貧しさを与えられた。

 人々の賞賛を得ようと、権力を祈り求めたのに、神の必要を感じるようにと、弱さを与えられた。

 人生を楽しもうと、あらゆるものを祈り求めたのに、あらゆるものを楽しむようにと、人生を与えられた。

 祈り求めたものは何一つ与えられなかったのに、実は私が望んでいたすべてのものが与えられた。

 このような私にもかかわらず、私の言葉にならない祈りは応えられ、

 すべての人にまさって、私は最も豊な祝福を与えられたのだ。❞

 神の御業は神秘の中にあり、隠されています。最後に旧約聖書の中から伝道の書第三章を引用して終わりたいと思います。

❝ 天が下のすべての事には季節があり、
すべてのわざには時がある。
 生るるに時があり、死ぬるに時があり、
植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、
 殺すに時があり、いやすに時があり、
こわすに時があり、建てるに時があり、
 泣くに時があり、笑うに時があり、
悲しむに時があり、踊るに時があり、
 石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、
抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、
 捜すに時があり、失うに時があり、
保つに時があり、捨てるに時があり、
 裂くに時があり、縫うに時があり、
黙るに時があり、語るに時があり、
 愛するに時があり、憎むに時があり、
戦うに時があり、和らぐに時がある。
 働く者はその労することにより、なんの益を得るか。
わたしは神が人の子らに与えて、ほねおらせられる仕事を見た。神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。わたしは知っている。人にはその生きながらえている間、楽しく愉快に過ごすよりほかに良い事はない。またすべての人が食い飲みし、そのすべての労苦によって楽しみを得ることは神の賜物である。わたしは知っている。すべて神がなさる事は永遠に変ることがなく、これに加えることも、これから取ることもできない。神がこのようにされるのは、人々が神の前に恐れをもつようになるためである。今あるものは、すでにあったものである。後にあるものも、すでにあったものである。神は追いやられたものを尋ね求められる。

 わたしはまた、日の下を見たが、さばきを行う所にも不正があり、公義を行う所にも不正がある。わたしは心に言った、「神は正しい者と悪い者とをさばかれる。神はすべての事と、すべてのわざに、時を定められたからである」と。わたしはまた、人の子らについて心に言った、「神は彼らをためして、彼らに自分たちが獣にすぎないことを悟らせられるのである」と。人の子らに臨むところは獣にも臨むからである。すなわち一様に彼らに臨み、これの死ぬように、彼も死ぬのである。彼らはみな同様の息をもっている。人は獣にまさるところがない。すべてのものは空だからである。みな一つ所に行く。皆ちりから出て、皆ちりに帰る。だれが知るか、人の子らの霊は上にのぼり、獣の霊は地にくだるかを。それで、わたしは見た、人はその働きによって楽しむにこした事はない。これが彼の分だからである。だれが彼をつれていって、その後の、どうなるかを見させることができようか。 ❞


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