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聖書協会共同訳


 さて、夕方に予約注文していた「聖書 旧約続編付き 聖書協会共同訳」が届き、ざっと、マタイ福音書の数章を口語訳聖書、共同訳新約聖書、新共同訳聖書、聖書協会共同訳パイロット版、フランシスコ会聖書研究所訳聖書1984年改訂版、フランシスコ会聖書研究所訳聖書2011年改訂版、田川建三訳、岩隈直訳福音書などと比べてみました。

聖書協会共同訳旧約続編付き Athanasius


 ざっと見た感じ、良くはなってないよなという印象を持ちました。これはパイロット版を見た時も思いましたが、悪い点は改善されず、カトリックのフランシスコ会聖書研究所訳聖書の訳文に近づいた(引っ張られた)表現も見られ、なんだかなーと言った感じです。

 まず冒頭の系図は、「○○(父親の名前)は□□(息子の名前)を生み」と書いているのだからそのまま訳せばいいだろと思います。それを口語訳では、父が子供を産むわけがないなんてこと考えたのか、本文をいじって「○○は□□の父」などと改竄して表現しました。それを共同訳で「○○は□□をもうけ」と訳した後、それにつなげた表現として「○○は□□を」と簡略させたりもしていました。それをパイロット版では「○○は□□をもうけ」だけの表現に留めました。聖書協会共同訳ではパイロット版が継承されていました。

 田川訳と岩隈訳は直訳的なのでまず見たいと思います。、1章20節は"「彼は聖霊から生まれた」"となっていますが、新共同訳では"「聖霊によって宿ったのである。」"と訳されていましたが、パイロット版で"「聖霊によるからである」"となり、聖書協会共同訳では"「聖霊の働きによるのである」"と修正され、より説明的な訳文になっていました。

 3章15節のイエスが洗礼者ヨハネに"「今は許せ。我々はこのようにすべての義を満たすのがよろしいのだから」。"と言われましたが、新共同訳 "「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」"と意訳されていました。パイロット版では"「今はこのまま受けさせてほしい。このようにしてcなすべきことをすべてするのは、、我々にとってふさわしいことである。」"と意訳していますが、欄外に"c直訳「すべての義を満たす」"と直訳文を載せていました。そして、聖書協会共同訳では、"「今はそうさせてもらいたい。dすべてを正しく行うのは、我々にふさわしいことです。」"とパイロット版に比べて随分すっきりとしましたし、新共同訳のやぼったさもなくなりました。聖書協会共同訳でもパイロット版同様欄外にて、"d直訳「すべての義を満たす」"と直訳を載せています。

聖書協会共同訳新約聖書パイロット版


 山上の説教(山上の垂訓)については、まずパイロット版の段階で小見出しが気になりました。プロテスタントではカルヴァン主義者たちの影響により英国外国聖書協会の1804年に出された基本方針により、聖書に本文以外(章・節の番号は別として)を載せることができず、プロテスタントでは聖書協会から出される聖書には、長い間、注も小見出しもありませんでした(ルターの出した聖書には、各書に序文があり、旧約と新約の間に旧約外典が置かれていましたが、大陸にあった聖書協会は英国外国聖書協会の援助を得るためにはその方針に従わなければなず、その規定にあった聖書が流布して行く結果になりました。)。共同訳以来、聖書にカトリックの方針が入り、小見出しが付くことになりました。

 共同訳・新共同訳・聖書協会共同訳では小見出しは、底本となっている世界聖書協会連盟発行の「ギリシャ語新約聖書」(共同訳と新共同訳は第三修正版より訳され、パイロット版と聖書協会共同訳は第五修正版より翻訳)の小見出しをそのまま訳しています。

 しかし、パイロット版の山上の垂訓では、1節の前に"至福の言葉"という小見出しが付いていました。小見出しが違うので、持っている世界聖書協会連盟発行の「ギリシャ語新約聖書」の第四修正版を見ましたら何も変わっていませんでした。それで、もしかして底本になった第五修正版では変更になったのかもしれないとacademic-bible.comで確認してみました(このサイトは何年か前にSNSで教えて貰ていました)。そこでUBS GNT5で確認しましたら第四修正版と同じでした。すなわち共同訳や新共同訳と同じ小見出しだったという事です。しかし、届いた聖書協会共同訳を見ましたら元の新共同訳と同じになっていて、パイロット版で評判が悪くて戻したのか、それとも単に暫定的な小見出しだったのかもしれません。

 さて、山上の説教は新共同訳と同じく、未来形受動態を「である」体に訳していました。せめて新改訳(第一版から第三版)のようにὅτιを訳して「・・・れるからです。」とするか、口語訳のようにὅτιを訳さずとも「・・・であろう。」と未来形にしてくれたらよかったのにと思いました。

 あと、ローマの信徒への手紙3章はいただけない。

"   神の義が現わされた
 21 しかし今や、律法を離れて、しかも律法と預言者によって証されて、神の義が現わされました。 22 神の義は、cイエス・キリストの真実によって、信じる者すべてに現されたのです。そこには何の差別もありません。 23 人は皆、罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっていますが、 24 キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより価なしに義とされるのです。 25 神はこのイエスを、d真実による、またその血によるe贖いの座とされました。ご自身の義を示すためでした。 26 神が忍耐してこられたのは、今この時にご自身の義を示すため、すなわち、ご自身が義となり、イエスの真実に基づく者を義とするためでした。"

 この真実(ピステウオー)と贖いの座(ヒラステリオン)の訳文はいただけない。

ピステウオーはパイロット版の「信実」の方がマシだった。田川訳のように「信」と訳す方がいいのだが、「真実」では・・・と言った感じ。

 あとヒラステリオンを、この個所で「贖いの座」(この語意はある。ヘブライ9:5 新共同訳「償いの座」)と訳すのには違和感がある。フランシスコ会聖書研究所訳(1984年改訂版、2011年改訂版共にこの語に訳されている)というかカトリックの委員に引っ張られた印象を受ける。

 文章としては、新共同訳の "神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。 " の方が一読で理解できますが、「贖いの座」訳されれば神殿祭儀をよく理解していない人には何のことか理解できないだろう。また、カトリックの祭壇で献げる生贄を想起させる。カトリックにとっては都合がよい訳と感じられる。

 とりあえずパッと見だけですがこんな印象を持ちました。





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athanasius

Author:athanasius
当ブログにおいて、キリスト教関係の記事などにつきましては、あくまでもわたしの信仰や所属する教派・教会の教義的な私個人の立場から、わたしがおかしい、納得できない、ウソだろう、こうではないか、なとなどの批判・批評、否定、または合意、賛同などを書いています。また他宗教については個人的な感想として書いています。ある人にとってはとても不快に思ったり、反対意見もあると思います。その場合、広い心でお読みください。また、人の考え方は不変なものではありません。過去の発言と現在の発言が変わったりするのも自然なことですのでご留意ください。

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