fc2ブログ

北海道キリスト教史

Yahoo!ブログから転載(12月ブログサービス終了に付き引っ越し)

北海道キリスト教史 その1
2011/5/20(金) 午後 6:02
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/4105096.html

 Anastasiaさんから北海道のキリスト教史についてのリクエストがありましたので、何回かに分けて書いて行きたいと思います。

 日本にキリスト教がもたらされたのは、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエル師やフランシスコ会のルイス・ソテロ師などの宣教師によることは、社会の歴史の教科書にも出ていて有名です。ちなみにフランシスコ・ザビエル師の絵は、想像図であるようです。あの頭のてっぺんを剃髪した髪型はフランシスコ会のもので、イエズス会の習慣にはなかったそうです。ちょっと脱線してしまいましたが、話しを戻しますと、信長の時代から秀吉の時代にかけて、これらカトリックの宣教者たちの働きにより切支丹は増えて行きましたが、宣教師の影にスペインの植民地政策が見え隠れしていることに気がついた秀吉は、キリスト教の禁止令を出しました。そしてこの禁令は家康にも引き継がれ、明治政府によって廃止されるまで続きました。このことは今では一般常識となっています。しかし、北海道におけるキリスト教史となると、ウイリアム・クラーク博士、聖公会の宣教師バチェラー師、正教会のニコライ大主教、無教会主義の内村鑑三などの、メジャーなことくらいしか知らないのではないでしょうか。しかし、幕末以降、長崎、熊本、横浜、函館はキリスト教の発展した都市でした。しかし、開国した日本の新しい首都東京に、人も物も集まるのは道理で、各教会や教団の本部などが首都に集中するようになって行ったのはいたし方のない話といえるでしょう。

 さて、本論に入って行きたいと思います。ペリー来航以前の蝦夷ヵ島のキリスト教についてですが、秀吉、家康などによって日本は切支丹禁制の時代に入りました。家康は1612年に天領や直臣に対する切支丹禁令を出し、1614年には全国規模に拡大させました。これにより京都、大阪の切支丹信徒を長崎と津軽に追放しました。この時追放された切支丹の中から、信教の自由を求めて津軽海峡を越え、蝦夷に渡る人たちがいたと思われます。そして、蝦夷地には迫害らしきものはなく、働きやすいとの噂が全国に流れ、年を追うごとに千軒岳金山を目指す人が多くなったと言われています。蝦夷松前に渡った彼らは、金堀人夫となって身を隠したのでした。

 1618年には、イエズス会のジェロニモ・デ・アンジェリス師が津軽の深浦湾から商人に変装し、二人の日本人伝道者を伴い、松前に向かいました。途中シケに遭い江差付近に流れ着きました。そして、実際松前に着いてみると、松前家中の重臣らに温かく迎えられ、領主からは「松前は日本には属さないから」と言われ、幕府の切支丹禁令など意に帰さずに、いろいろと好意を示され、宿舎まで用意されたと言います。

 アンジェリス師は10日ほど滞在した後に出羽に帰りました。翌年、アンジェリス師は再び蝦夷地に渡ろうとしましたが果たせず、後輩のディオゴ・カリワーリュ師を1620年に蝦夷地に派遣しました。翌年には再びアンジェリス師が、またその翌年にはカリワーリュ師が二回目の蝦夷地への渡航を果たしています。そして、両師は1623年、24年にそれぞれ江戸、仙台にて殉教しています。

 本州においては切支丹弾圧が日増しに厳しくなって行くのに対して、松前の領内においては何の弾圧もなかったようです。しかし、1637年に起こった島原の乱で、幕府は一掃禁令を強化するようになり、当時の松前領主松前公広に対し将軍家光は、切支丹の厳重取締りを命じました。このことにより公博が帰郷して後、切支丹の調査が行なわれ、千軒岳金山と大沢金山に多数のキリシタン信徒のいることがわかり、また、城下や家臣にも切支丹がいることが解かりました。松前は幕府の厳命ゆえに重い腰を上げ、金山で働いている切支丹の処刑を決意しました。これが「千軒岳106名殉教」と呼ばれるものです。そして、これより後、歴史の記録によれば、蝦夷地には隠れキリシタンのような形態にしても、切支丹は残らなかったと言われています。

 江戸期にはローマ・カトリック教会のほかにも、キリスト教のアプローチはなかったのでしょうか。ロシア正教側の文献によると、1600年代には、数件の海難事故によりロシア領に漂着した漂流者の記録があります。日本は鎖国中であったことからも、再び日本の土を踏むことはなく、ロシアに帰化した漂流者のほとんどがロシア正教の信仰に入ったことが知られています。

 1708年にロシアのピョートル大帝はカムチャッカの領有を宣言し、さらに千島への南下政策を進めました。それに伴いロシア正教も南下を開始しました。カムチャッカにも主教座が置かれ、シベリア最初の正教伝道者であるインノケンティ主教がその任にあたりました。そして、北千島には宣教師が送り込まれ、1734年にはパラムシル島で洗礼が施され、1745年には北千島アイヌの信者は174人に上ったと記録されています。1747年には宣教師イエロモナハ・イオサフ師がロパトカ岬で7人、シュムシュ島で8人に洗礼を授け、翌年にはパラムシル島に移り、その翌年まで滞在し、ロシア正教の信徒は両島で208人になったと記録されています。

 その後に国や教会から幾人かの人間が派遣されましたが、質の低い者が派遣されていたようです。それにも関わらず、1756年にはシュムシュ島に礼拝堂が建設され、教会と学校を兼ねて使われました。しかし、南千島は日本のものでしたので、幕府の鎖国令や切支丹禁令のアイヌへの適用などにより、南千島以南には正教が広まることはありませんでした。これ以降の蝦夷地のキリスト教史は、函館開港を待たなければなりませんでした。蝦夷・北海道のキリスト教史からすれば、この江戸期は夜明け前の出来事と言えるでしょう。

つづく

***

北海道キリスト教史 その2
2011/5/21(土) 午後 0:05
https://blogs.yahoo.co.jp/yhwhicxc/4129589.html

 1853年にペリーが来航し通商条約を求めてきました。そして、1855年、箱館(後に函館と改称)が世界に対して開かれました。1858年にはロシアが函館に総領事館を設置し、領事イオシフ・アントノヴィチ・ゴシケヴィチを着任させました。また、ロシア政府では、大使館、公使館、領事館を外国に置く時に、司祭を派遣して館員のために教会の聖規則を行なわせる規定がありました。その規定により領事館付き司祭として長司祭イオアン・ワシリエヴィチ・マアホフ師が領事と共に着任しました。マアホフ師は、わが国では初の露日用語辞典とも言える『ろしやのいろは』と題する小冊子を刊行しました。また、1859年には長司祭ワシリイ・エメリヤノヴィチ・マアホフ師(イオアン・マアホフ師はワシリイ師の女婿)が主任司祭として着任しました。師は1860年に病気のために帰国されました。ワシリイ・マアホフ師の着任と同じ年の11月には、ローマ・カトリック教会のパリ外国宣教会の司祭メルメ・デ・カッション師が函館に来られ、英国領事でフランス領時を兼ねていたホジソン氏の元に寄寓しました。1861年7月には、在日ロシア領事館(函館)に主任司祭として、修道司祭のニコライ師が着任されました。

 ニコライ師は函館に着任後ただちに日本語の学習をされ、特に儒学者木村謙斎、次いで新島七五三太(にいじましめた。後の同志社と日本組合基督教会の創立者新島襄)らから日本語、日本史、儒教、仏教の手ほどきを受けました。後年、『古事記』、『日本書紀』、『日本外史』、『法華経』などを読破し、それを神学校で講義するまでになったことが知られています。

 1863年、カトリック教会のメルメ師は、一人にも洗礼を授けることなく函館を離れました。1864年7月には、新島襄が函館よりアメリカへ向けて密出国しました。この新島襄の密出国の少し前になりますが、ニコライ師の元にもと土佐藩士で、坂本龍馬の従兄弟にあたる、函館神社の宮司となっていた沢辺琢磨が押しかけてきました。彼は1857年に事件を起こし、武市半平太、坂本龍馬、大石弥太郎の助けを受けて江戸から姿を消し、函館に現れ、函館神社の宮司の沢辺と言う人の婿養子となっていました。琢磨は熱心な尊皇攘夷論者で、函館が外国に開かれ、外国人が往来するのを快く思っていませんでした。彼は当時函館ロシア領事館員の中に、剣道を習いたいという者がいたので、その師として領事館に出入りするようになっていました。この時ニコライ師の元に通う新島襄と知り合いになり親しくなりました。沢辺はニコライ師を見かけ、もともと外国人を夷敵として嫌っていた彼は、このニコライこそ日本を毒する根源であるとし、論争を持ちかけ、その答弁如何によっては切り捨てるつもりで師のもとに赴いたのです。明治40年にニコライ師が語られた沢辺とのやり取りを『日本正教史』から見てみましょう。

 『沢辺はある日突然ニコライを訪れ、その室に入るといきなり怒号して、論争になった。
(沢辺)なんじら異国人はわれらの国をうかがいにきている。なんじらの宗教は、その道具である。
(ニコライ)あなたはわたしどもの宗教の何であるかを知っておりますか。
(沢辺)それは知らない。けれども余の考えていることは、広く一般の意見である。
(ニコライ)わたしどもの宗教を知らないで、どうしてさように言わるるか。これは道理にあっておりますか。
(沢辺)しからば、なんじらの宗教は何であるか、それを話せ。
(ニコライ)ではお聞きなさい。
 そこで、ニコライは唯一の神、世界の造物主のことを説明しはじめた。すると話がすすむにしたがって、客の顔はしだいにやわらいで、聞きながら腰から墨汁を取り出し、たもとから紙を出して、ニコライの言うところを記しはじめた。さらに客は、
(沢辺)これはわたしが考えていたこととは違う、今後もまたわたしに教えのことを話してください。
(ニコライ)いつでもおいでください。話してあげましょう。
 それからのち、彼はたびたびニコライを訪れ、まもなく熱心な信徒となったと、ニコライは言っている。』

 1867年10月には第十五代征夷大将軍、内大臣徳川慶喜公、大政を奉還し、将軍職の辞退を朝廷に奏上しました。12月には明治天皇により王政復古の大号令が発布されました。同じ年、パリ宣教会士ピエール・ムニクウ師、アンリ・アンブルステ師が函館に来着しました。

 沢辺琢磨はニコライ師に師事してから、函館の医師酒井篤札や南部人の浦野大蔵や、函館の人鈴木富治を信仰に導き、1868年(明治元年)四月に沢辺(洗礼名パウェル)、酒井(洗礼名イオアン)、浦野(洗礼名ヤコフ)の三名はニコライ師のもとで洗礼を受けました。これは日本での正教会の最初の洗礼となりました。

 同じ年にカトリックのムニクウ師、アンブルステ師と懇意となり教義を両師から学んでいた行商人の善兵衛(洗礼名ヨゼフ)は、聖土曜日に洗礼を受けました。カトリックとしては北海道における洗礼の初穂となりました。ローマ・カトリック教会と正教会が、同じ年に洗礼の初穂を得たのは面白い偶然といえるでしょう。

 この年の11月、榎本武揚ら旧幕府軍が函館を占領し、12月には全蝦夷平定を通告し、わが国で初めてで唯一回の共和制が敷かれました。しかし、71年には旧幕府軍は降伏し、共和制は夢と消えました。明治政府は開拓史を設置し、蝦夷地を北海道と改め札幌に本府を建設をしました。

 1869年のはじめ、ニコライ師は日本伝道会社を設立するために、一時ロシアに帰国されました。そして1871年2月にニコライ師はロシアで掌院に昇叙され、日本伝道会社社長(まだ切支丹禁制下にあったので会社組織となっている)として再び函館に帰ってこられました。10月、正教会で小野荘五郎ら11名が授洗しました。彼らのほとんどが伝教者となり、日本正教会の礎となりました。12月にはロシアから、日本の伝道を補佐するために修道司祭アナトリイ師が函館に到着されました。もうこの当時は、維新の改革も進み、文化の中心が首都東京に移っていたことをうけ、1872年の1月にニコライ師はアナトリイ師に函館における伝道事業を任せて上京されました。

 1873年に明治新政府は幕府時代の切支丹禁制の高札を撤去しました。しかし、キリスト教が認められたわけではなく、ハリストス正教会などは教勢が著しく大きくなったことをうけ、新政府から迫害を受けることもありました。

 1874年1月、アメリカ・メソジスト監督教会の宣教師メリマン・C・ハリス師夫妻が函館に到着しました。同年5月には英国聖公会の海外伝道協会から、ウォルター・デニング師が派遣されてきました。両師が北海道でのプロテスタント宣教師の最初となりました。同年8月には中里方親、相沢良恂がハリス師より洗礼を受け、本道におけるプロテスタント受洗者のはじめとなりました。

おわり。

スポンサーサイト



コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

athanasius

Author:athanasius
当ブログにおいて、キリスト教関係の記事などにつきましては、あくまでもわたしの信仰や所属する教派・教会の教義的な私個人の立場から、わたしがおかしい、納得できない、ウソだろう、こうではないか、なとなどの批判・批評、否定、または合意、賛同などを書いています。また他宗教については個人的な感想として書いています。ある人にとってはとても不快に思ったり、反対意見もあると思います。その場合、広い心でお読みください。また、人の考え方は不変なものではありません。過去の発言と現在の発言が変わったりするのも自然なことですのでご留意ください。

 Yahoo!ブログからの引っ越し記事内のURLはリンク切れをしているものがあります(気が付いたらものからインターネットアーカイブに保存されているのならウェイバックマシンURLなどに修正などしております)。


 役立った、良かったなどありましたら拍手ボタンを押していただけると嬉しい限りです。


​一応、特に聖書の引用表記のないものにつきましては、著作権の保護期間を過ぎている日本聖書協会の「口語訳聖書」(1​955​年版の旧約聖書、19​54年版の新約聖書)を使用させていただいています。後の改定された口語訳聖書と違い、一般に差別用語や不快語とされていしまった言葉がそのままですのでご注意ください。

最新記事
最新コメント
カテゴリ
検索フォーム
リンク